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海上自衛隊の自衛官だった父が、砕氷艦ふじでの南極観測支援に参加した時撮影した写真を紹介しています。

2020.01.01 | ようこそ!
オヤジの夢をみた。
夢のなかでオヤジは、ビールを飲もうとオレを誘っていた。
コタツに座って、早くビールをもってこい、と。
そう言っていた。
週末にオヤジの納骨をする。
奇しくも桜満開のこの時期に。
いろいろ紆余曲折あったが、ついに墓は無事完成し、坊主の都合でこの週末の納骨ということに相成った。
これには、「お墓さえ出来てしまえば、もう焦って納める必要もない」という姉の意向も働いていたように思う。
石室には、坊主の特段の計らいによって、もう十数年前に死んだ、犬の遺骨も納められることとなった。
塔婆まで書いてくれるという。(塔婆料上乗せということだな。w)
グレートピレニーズ、大きい犬だった。
後に見つかった“自伝”によれば、その犬が仔犬として贈られた「ちょうどその時」に、オヤジは原因不明の難病・紫斑病を告知され、そのまま強制入院と相成っている。
紫斑病に白血病に、肝臓がん。
そんな戒名を持つ患者が集められた病室で、昨日まで隣のベッドで寝ていた“なかま”がこの世を去り、反対側のベッドの住民は「家に帰りたい」と繰り返す。
否が応にも自らの「死」を意識し、その「何も準備をしていない死」を悔やむ日々。
原因不明の難病は、これまた原因の分からないままに快方へと向かい、入院から2ヶ月近くして、ようやく「外出」の許可が下りた。
週末を自宅で過ごしても良いということなのだ。
久しぶり帰宅すると、来て早々に入院してしまった主人を、その犬は覚えていたらしい。
それからのオヤジというのは、思えば死ぬ為に生きていたような気がする。
「死」を宣告されてもジタバタしないように、日々をかみ締めながら生きていく。
この犬を連れ出しての“散歩”というのは、まさにそれを象徴するような行為だった。
四季の移ろいを感じながら、時に河原で寝転がり、時に転寝をする。
犬はそんな主人を、黙って見守っていたという。
「初期の胃がん」を告知されるのが、この数年後。
それは「始期不明の胃がん」として、後に死亡診断書にも記載されることになる。
本人の懐述によれば、この時から「自分は胃がんで死ぬ」と決めていたそうだ。
そして“その犬”も、初期の見立てを誤り「骨のがん」とかで早世してしまう。
「胃」と「骨」、場所は違うにしても同じ「がん」による死ということで、考えるところもいろいろあったと自伝には書かれているが、何より大事にしていた“母ちゃん”の悲しむ姿に配慮したのだろう。
犬は火葬され、人骨とほぼ変わらない大きさの骨壷に入れられ、以来ずうっと床の間の端に置かれていた。
その骨が、今回一緒に納められる。
あの川は、護岸工事ですっかり姿を変えてしまったけれど、オヤジは今でも、あの犬と一緒に河原で桜など眺めているに違いない。
今年も桜が綺麗だ。
2010.04.03 | Comments(0) | Trackback(0) | 海軍少尉の闘病日記
今日は1月6日、オヤジが死んで、ちょうど1ヶ月。
いわゆる、「月命日」である。
なので、オヤジのことをちょっと書こうと思う。
オヤジの遺影である。
かすかに笑っている。
いつも眉間にシワを寄せて、「しかめっ面がデフォルト」の頑固オヤジだった彼が、こうやって微笑みながら写真に納まっているというのは、非常に珍しいことである。
それゆえに、通夜の晩には直視できなかった。
直視できないくらいに、「いい表情」をしていたのである。
少し前かがみになり、センターからもズレて、やや左を向いてはいるが、いい写真、いい遺影だと個人的には思っている。
また、滅多にネクタイなんぞ締める機会のなかったオヤジが、珍しくネクタイ姿なのもかなりレアである。
何故この時ネクタイを締めていたのか不明なのだが、お陰で無機質な書割の黒ネクタイ姿にならずに、結果的には良かったと思っている。
また、肩周りの肉付きが良いのがオヤジの特徴でもあるのだが、そのあたりもよく出ていると思う。
「いい遺影」、なのである。
そしてこれが、その「ネタ元」となったスナップ写真。
場所は背景からするとどうやら「ガスト」っぽい。
左手にはピザを持っている。
(ちなみにもう一枚、似たようなアングルの写真があったのだが、そちらではオヤジは「ピースサイン」をしていた。危うく、その写真を遺影にされるトコロだったのだが、「長男の拒否権発動」ですんでのトコロで回避した。危ないトコロだった。)
と、いうコトは、当然アルコールも入っていたハズである。
久しぶりに外食して、ほろ酔いで、隣りには「大好きなオカアチャン」。
そら、半笑いにもなるわな!
なのだが、この写真には「もう一つ」、重要なことが写されている。
指を一本立てた親父の「手」が、異様に大きいことにお気付きだろうか。
この写真が撮られたのは2004年。
死ぬ5年前のことである。
この時既に、手足にむくみが現れていたのである。
(オレは知らなかったが、うちの奥さんは会う度に気になっていたらしい。)
本人はコレを、「心筋梗塞後の服薬による副作用」と言っていたらしいが、やっぱり違うよな。
その尋常ではない「むくみ」、あれは「肝機能障害による手足のむくみ」であったに違いないのである。
オヤジの死後、弔問に訪れた医療関係者の方々が口々に言うのが、「それはさぞだるかったでしょう」という言葉。
胃がんが肝臓に転移して、肝硬変も末期になるまでの過程において、何らの投薬もせずに居た場合の「だるさ」と言ったら、想像に容易い。
そしてそのことに呼応するように、この頃からオヤジの晩酌の酒量が「極端に」多くなっていったのである。
どれぐらい飲んでいたかというと、まず「とりあえずビール」。
ソコから「焼酎」に移行して、〆の寝酒は「ウイスキー」。
それも、「焼酎」と「ウイスキー」は驚愕の「4Lペットボトル」に入った安っぽーいヤツが、「どちらも月に1本では足りなかった」というから、その酒量がお分かり頂けるだろうか。
実家に行く度に転がっている「4Lペット」を見るにつけ、
「酒好きのオヤジが、よくこんな『安酒』を飲むなぁ。」
と思っていたのであるが、あれはその、「堪え難いだるさ」を紛らす為に飲んでいた「麻酔」だったのである。
晩酌に「浴びるほど」の酒を飲み、機能の低下した肝臓からその酒は翌日に持ち越し、昼過ぎに切れる。
と、途端に襲ってくるだるさに酒が欲しくなり、しかしまた日が高いうちは飲むわけにもいかないと自分を律し、その限界が午後4時過ぎ。
と、途端にやたらとイライラしはじめ、また酒を飲めば落ち着く。
そんな生活が実に5年!
5年以上もの永きに亘って、そんな生活を続けていたのである。
そうまでしてでも、頑として医者に掛からなかったオヤジ。
今夜はそんなオヤジの遺影を眺めながら、ビールでも飲もうかと思う。
遺影はちゃんと用意しておこうという、そういうハナシである。
オヤジ、笑ってやがる。
実は左手には「ピザ」を持っていたなんて、よもや釈迦でも分かるまい。
2010.01.06 | Comments(0) | Trackback(0) | 海軍少尉の闘病日記
通夜の晩、棺の中のオヤジを眺めていると、喉元から生える一本の毛を見付けた。
「あれ?オヤジ、宝毛生えてるぞ!?」
思わずそう言うと、オヤジが生前からその毛を大切にしていたことを、姉は知っていた。
なんでも、体を拭く際に、
「宝毛は抜くなよ!」
としつこく言われていたらしい。
後で聞くと母も同じことを言っていた。
その件一つ取っても、オヤジは随分と贅沢な死に方をしたものだとつくづく思う。
たかが毛一本に至るまで、家人に気配りさせていたのである。
現代の日本の医療制度にあっては、「家で死ぬ」また「畳の上で死ぬ」ということが、非常に難しくなってきている。
「家に帰りたい」
「家に帰りたい」
と懇願しながら最期を迎えた人たちを、数多く知っている。
かと言って、生死に関わるような状態で、医者に掛からずに黙って堪えるというのも、難しい話だ。
あのオヤジでさえ、「痛み止め」の点滴チューブが外れて「死を目前にした痛み」を体感した時は、
「(てめえらヤブ医者連れて来やがって、)皆 殺 し に し て や る!」
と家人に暴言を吐いたほどだった。
モルヒネより強い鎮痛剤と、許容量を超えない自動点滴装置、最先端の近代医療無しでは、あんなに安らかな死に顔にはなれなかったと思うのだ。
その点、家庭医制度の創設と、「薬漬け」と揶揄される終末医療の「在り方」に関する見直し。
事の発端は年々増加し続ける高齢者医療費であったとしても、結果として僻地でも容易に受けられるようになった「訪問看護」の拡充は大きい。
おかげでオヤジも、労せずして「在宅での終末医療」を受けることが出来た。
(それが「安価」かどうかは、まだ請求書が届いて居ないので言及出来ないが、少なくとも「差額ベッド代」が発生し続ける状況よりは、マシだったと思う。)
結局オヤジは、末期の胃がんが発見されてから入院40日、自宅療養20日の都合60日間で、この世を去った。
周囲には、
「南房総特産のビワの『種』でがんが治る」
と唱える一団が居て、オヤジ自身も「ビワの種」を人にも薦め、自らも食していたのであるが、あれは自身の「がん」に対するリスクを恐れていたからだろうか。
実際、末期のがんで医者に見放され、「ビワの種」で劇的な回復を見せた先輩は多い。
多いけれども、・・・
結局は「がん」で死んでいる。
オヤジも、日常的に「ビワの種」を食していたが、結局は「肝臓にも転移するほどの末期の胃がん」で死んだ。
しかし、入院直前まで普通に食事をしていたわけで、前日には「おにぎり」を2コも平らげている。
それは、
「食道直下にあれだけ大きな病巣があっては、食事など考えられない」
という担当医の見立てに大きく反するし、まして「飲酒」など「有り得ない」のだそうだから、「ビワの種」のそれ(がんの諸症状の緩和)に対する効果効能を全否定することは出来ないのではないか、という見解を持っている。
(信じて食ってるんだから、「科学的には」とかいいじゃないか、ってね。)
いずれにしても、俗に
「見つかってから三ヵ月から半年」
と言われる「末期がん」の闘病期間がオヤジは「たったの」二ヵ月で済んだし、それでいて家人には「うんざりするほどの排泄介助」をさせ、かと言って「寝たきりで垂れ流し」にはならずに家で息を引き取ったオヤジというのは、実に贅沢で理想的な死に方だったとつくづく思う。
(介護というものは、無ければ無いで家人が納得出来ないという、実に厄介なものだ。)
惜しむらくは、神仏の教えを知らなかったが故に、視力を失った最後の数日間を「恐怖」とともに過ごしたことだろうか。
とはいえこれは、
「三途の川も、カネ次第」
みたいな現在の宗教界にも問題があると思う。
早朝の呼吸困難で危篤に陥ってから、息を引き取るまでの所要時間がたったの2時間。
医師の診察を撥ね除け、血圧測定を拒み、医師は気休めの医療行為を諦めて一時退散する。
離れて住む息子は間に合わず、近くに住む娘は愛犬の散歩に出掛けて、奥方が着替えをしようと離れたその瞬間。
逝くには、これ以上無いくらいの絶好のタイミングである。
だって、みんなに見つめられたら照れくさくて、息なんか引き取り辛いじゃないか。
オヤジの声が聞こえて来そうである。
近しい者だけのしめやかな通夜に、訃報を聞き付けた旧友が大挙して押し掛ける盛大な告別式。
あんな死に方を自分も出来るかどうか、正直、自信が無い。
そんな死に様であった。
スナップ写真から切り取ったオヤジの遺影は、こちらを向いて笑っている。
前後して撮った「ピースサインしている写真」は、断固反対してこれにした。
家族が集まった時、事あるごとに遠目で見ていた、オヤジの顔である。
「あの世」でもきっと、笑っているに違いない。
いや、笑っていてもらわなければ困る。
あんなに理想的で、贅沢な死に方をしたんだから。
「元気な頃のままの記憶で居たいから、死に顔は見ない!」
頑にそう言い続けた「最後の友人」の言葉が、今でも心に残っている。
2009.12.10 | Comments(0) | Trackback(0) | 海軍少尉の闘病日記
俺が死んでも葬式不要。
骨は海にでも撒いてくれ。
そう言い残したオヤジのコトバを忠実に守ろうとする奥方。
医師から死亡診断書が交付され、ソイツの右側が「死亡届」になっていて、役所に提出すると交付されるのが、「火葬許可証」。
その「火葬許可証」と「遺体」を持って火葬場に行けば、「火葬」はしてくれるというコトになってはいるのだが、・・・
火葬場まで、オヤジをどうやって運ぶの?
棺桶は?
骨壷は?
結局、「葬儀屋さん」というトコロにお願いするのが、「一番早くて一番確実」なのである。
火葬の日時が決まれば、「前日にお通夜」、「2時間前に告別式」と自動的に段取りしてくれる。
そうやって、「一般的なお葬式」と執り行うことで、参列して頂ける方々も安心して参加できるものなのだ。
それでもオヤジの言いつけを守り、病気療養中だったことも、死んだことすら、周囲に漏らさなかった奥方。
案の定通夜に先立っての「納棺」に立ち会う参列者はなく、葬儀社の方お二人と、たった三人でオヤジの棺を担ぐハメになった。
形式だけの通夜には、親族のほかに列席者は二人。
それはそれで、空寂しいものがある。
明日の告別式は、果たして大丈夫なんだろうか。
一抹の不安を抱えながら、最後の夜を明かす。
と、翌朝届いた花輪には、「館空会」の文字が。
「館空会」は、「海上自衛隊館山航空基地」に関係する各位とOBたちによって構成される組織。
と言っても、その主たる目的は、「会員各位の訃報に関する情報を共有すること」。
この会から花輪が届いたと言うことは、・・・
有り難いことに、現役時代に関係した恩師、同期、部下に至るまで、数多くの方々のご列席を頂いて、当初予定していた「倍」の人数で、オヤジを送り出すことが出来た。
棺桶に、「現役時代一番長く着た軍服」と、引退時に送られた「海軍旗」を納め、蓋をする。
ちなみに、オヤジに最後に着せたのは、退官後に好んで着ていた作務衣(さむい)である。
これには、
「もう自衛隊は引退したことだし、『あの世』へは『一般の人』として旅立って欲しい」
という願いも込められていたのだが、やはりこれだけ基地関係の皆様のご列席を賜ると、そういうわけにもいかなくなる。
棺の上に乗せた「制帽」が妙にハマってしまって、不覚にも置いたワタシが直視できなくなってしまった。
棺は霊柩車に載せられ、火葬場へ。
火葬場には既に、同じ葬儀社の方が控え室を取って待っていて、まさに「至れり尽くせり」の状況である。
待つこと2時間。
平成21年12月8日午後3時、オヤジは真っ白な骨になった。
生仏のうちは、まだオヤジが動き出しそうで、まだ何かすれば間に合いそうで、込み上げる涙を抑えるばかりだったのだが、不思議と骨になってしまうと、すうっと胸のつかえが取れるというか、悲しくなくなるものである。
小さな壷に入れられて、オヤジは無言の帰宅を果たした。
これで一段落。
あとはゆっくり、散骨の算段でも取ることにしよう。
「葬式不要」と言われたけれど、こんなカンジになっちまいました。
坊さんは呼んでないから安心してくれ。
でも、こんなにみんな来てくれたぞ、オヤジ。
良かったな。
永い間、ありがとう。
2009.12.09 | Comments(0) | Trackback(0) | 海軍少尉の闘病日記
午前6時前、鳴ってはいけない電話が鳴った。
相手は母親。
「母親から着信」
というだけで、用件はもう分かっている。
午前5時過ぎに容体急変。
担当医の訪問を受け、酸素吸入がされるという。
医師の見立てでは、こうなってから長くて2日。
ここ一両日中が「相場」だそうだ。
「そんなに急がなくてもいい」
こちらもそのつもりで身仕度を整える。
と、高速に上がったところで、再び電話が。
嫌な予感がする。
午前7時10分。
奥方がちょっと目を離したその隙に、逝ってしまったそうだ。
「海軍時間」というのがある。
海軍さんは遅刻すると船が出てしまうので、「5分前行動」が原則である。
その気質が染み付いたオヤジであったが、あの世へも、「早めに」出発したらしい。
間に合わなかった。
享年71歳。
最後まで「海軍さん」の、オヤジだった。
2009.12.07 | Comments(0) | Trackback(0) | 海軍少尉の闘病日記